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『日本の絵』 exhibition view @アートスペース羅針盤

 

 

会場には2双の屏風と1点の大作の日本画、他に小品が置かれている。

三瀬氏の特異性は、壁面に吊るされた大作に出ていると思える。この作品は壁いっぱいの大きさがあるが、その大きさの基底材を作ってから描かれたのではなく、和紙の断片を継ぎ足しては金箔を張り胡粉や墨で図が描かれ、また和紙が足されては描かれたものと文章で説明されている。パネル張りや裏打ちもされていないため、和紙は水分を吸って歪み、波打つ。上部は会場の梁に合わせてカットされている。拡張に継ぐ拡張の結果として、ビルの建築現場にかけられた巨大なビニールシートのような「たわみ」を見せた金箔地に、混沌とした図が描かれたようなものとなっている。

 

描かれた図に関してはまず画面上方に左右に拡がる富士山の連なりが奇異に思える。山脈のような「様々な山」の連なりが描かれているのではなく、単一で取り替え不能な「富士山」が何度も何度も描かれている。前後にも左右にも重なり、繰り返し反復されるそのシルエットは、緻密な描写ではなくマンガのような、単純化された形だが、濃密な富士山の群れはある種の息苦しさを持つ。また画面下方には都市や住宅街、なにかしら巨大な塔のような構造物があるが、それらは連続した広がりを持たず、断片的にある。

 

この作品は、作家自身によって、奈良から東京へ作家が移動してくる際に経た「道のり」を追いながら、その道のりに沿って見た光景を次々と「繋げて」描いたものと説明されている。和紙を繋げては光景を繋ぎ、また和紙を繋げては光景を繋ぐといった行為の「連続」によってひたすら作品が展開され、その展開には「とりあえず」の終わりしかない。事後に統一したパースペクティブを描くのではなく、時空を経ながらその場その場を繋げていった作品は、しかしその「繋ぐ」行為の度にバラバラな場面を散乱させていく。奈良-東京間のランドマークとなる富士山は、遠くから近付き、やがて目前を通り離れていくその場面場面で「無数の富士山」となり何度も描かれ、合間に作家が目にした様々な都市や構築物、土地の光景も「繋げる」たびに不連続な場の集積となっていく。「繋げていく」徹底した意志が逆に個々の場面を微分し、移動の瞬間ごとに変わっていく視点の重ね合わせとなって、アメーバー状に広がる画面となっていく。

 

視覚を連続させることによって浮上する視覚の不連続性、そこにこの作品の骨格がある。殆ど定着することが不可能な「瞬間」の視点は恐らく移動の現場では簡易なクロッキーやメモとしてしか記されることはなく、その「絵」にならない「メモ」としてしか残せない視覚の刹那性が、マンガ的な富士山のシルエットに嘘くささではない独特な切実さとなって現われている。徒歩では無く、鉄道や高速バスのような移動手段を使ったらしい作家の視点は、一瞬たりとも止まることなく後方=過去へ飛びさっていると思え、その定着させる間もない瞬間を繋いでいくことにしかリアリティを持てないと言う作家/作品は、極めて誠実な破綻を見せることになる。しかしこの破綻は整合性のとれた統一空間を脅かし、この絵を見る人の知覚すら分解していく。単純に言って、この作品は全体を見渡しそこに筋の通ったまとまりを見ることができない。ぐずぐずに歪み、無数の「面」を作っている画面自体が破片の重なりで、その破片をひとつひとつ拾っていかざるをえない。

 

三瀬夏之介展の作品には視覚の無限性が刻まれている。日本画で描かれる富士山という、「まとも」な画家ならば絶対に選ばない死んだ画題を、三瀬氏はパロディにするのでも戯画にするのでもなく、徹底して「見続け」「繋ぎ続け」「描き続ける」という恐ろしいほど愚直な方法によって正面から捉え解体した。基底材の成り立ちと描画の同時進行を進めながら一見「崩れた」絵を描く三瀬氏は実は分析的な作家であり、描く事と見ることに集中した結果が見せる「崩れ」にこそ、三瀬氏の構築があると思える。

永瀬恭一

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