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『rust work』 exhibition view @ギャラリーRay

「三瀬夏之介と温故知新」                            

古都奈良には現代建築と遺跡が混在している。我々は、この光景を見慣れているせいもあり、面倒臭さも手伝って、それが当り前のことと簡単に済ませようとしてしまう。が、三瀬は敢えてそれを「奇景」と言ってのける。この正直さと、ものごとをありのままに見ようとする姿勢は、今の時代にあっては貴重なものだ。三瀬はまた、全てにおいて「定義する」ことが難しくなっている「今」という時代に「『日本画』とは何か」という問いに直向きに答えようとする。岩絵具や墨などの日本的と言われる画材を用いさえすれば「日本画」になると本気で信じているあさはかな者は既にこの国には存在しないだろう。「ジャンルに囚われない」などという陳腐な常套句を持出すような甘さも三瀬にはない。全てが消費され、全てを溶解してしまう高度大衆情報社会に身を置きながら、三瀬は、己の立つ位置をしっかと見定め、よってきたる源を明らかにしようと、自らを探る作業を放棄しない。三瀬自身が述べているように「奈良で生れ、奈良で育ち、奈良で制作している私の本当の深い真実が共通の普遍性に突き抜ければ良い」という明快な覚悟があるのだ。それこそが三瀬のアイデンティティーにほかならず、そのようにして制作されたものだけがまさしく三瀬夏之介の「日本画」であり、その精神態度は芸術家の王道を行くものと言ってよい。

歴史や伝統には繊細なところがあって、継承するために手厚い庇護を加えなければならない場合がある。他方、垢にまみれ、錆びつき、新しい時代に生残ることがかなわぬ部分も出て来る。護らねばならぬよき歴史や伝統のうえに新たに創られて行くというのもまた、歴史や伝統というものの一つの姿なのである。滅び行くものにも世界はある。古色を帯びることによってひとつの世界が輝きを増すこともある。

いろいろな意味で「緑青」は示唆に富む。理不尽にも有毒と信じられてきた緑青は、古来日本の美を象徴するもののひとつだ。実はこの錆こそが銅を護り、人体にも害を与えないことが近年の研究により証明された。緑青に覆われた銅片を高温で煮沸しても緑青は殆ど溶けない。極めて緻密な結晶状の物質である緑青という酸化皮膜には、銅の腐食を防ぐ働きがあるのだ。この不思議な錆に、三瀬もまた、独特の美を見、世界を感じる。緑青を用いた三瀬の作品はひときわ異彩を放つ。

「今」という時代は「変化」と「新しさ」に対して無批判に賞賛を送る傾向がある。果して「変る」こと自体にそれ程の意味や価値があると言えるのか。目先の変化を求めるのは単に我々のこらえ性がなくなった証にすぎないかもしれない。いかように変って何処へ行こうとするのか。その結果どのような影響が生じて何が我々にもたらされるのか。「変化」に対する無邪気な信仰の蔓延には辟易する。「新しさ」の追究にも同様の弊がある。新奇なものに飛びついて本質を忘れた愚か者の話を我々は耳にタコができるほど聴いてきたはず。古いものほど新しい。新しいものもいずれは古くなる。古びないものこそ新しい。新しいものの中に実は古いものが生きている。古びるもののなかにこそ新しさがある。「古さ」と「新しさ」の関係はそう単純ではなく、一筋縄では行かない。

「遺跡の発掘で発見された古代文字を解読したら『近頃の若い者は』という愚痴だった」。いつの時代にもジェネレーション・ギャップすなわち世代間の断絶はあるという人口に膾炙したこの逸話で笑うことが、もう自分にはできない。今の若い世代が過去の若年層と明らかに異なる資質を有すというデータが示されたからだ。いわく「我慢ができない」「キレ易い」「自分だけが優れていて自分以外の人間はダメだと思い込む」。よく観察するとアーティストの世界も例外とは思えない。威勢よく現状批判をしている若いアーティストの意見をよく聴くと、結局その若いアーティストを優遇しないのはけしからんというような結論に落着くことが多い。どうしたらすぐに売れるのかと正面から尋ねられてひっくり返ったギャラリストも数知れないと聞く。

「万人に理解されるとは思っていない」「皮肉としての、新しさとしての『日本画』を描くことができない」という独白に窺われるように、今のところ三瀬は美術作家としてまっとうな方角を向いて進んでいると言ってよさそうだ。しかし同時に、三瀬が今、正念場に立たされているのも事実。露出が多くなって売れっ子になると作品のクオリティが反比例して落ちるというのがアーティストという生き物の通り相場になっている。これにはあまり例外が見当らない。最近「日本画」の展覧会の常連になって忙しそうにしている三瀬には初志貫徹を切望する。「ほんものの『絵』を描こう」と決意を述べたその心意気やよし。学生時代、何も考えず、ただひたすら造った作品のクオリティによってその才能は実証済みだ。三瀬が気にしなければならないのは、世代の異なるアーティストや同世代の仲間ではない。収集家や画商や評論家でもない。己自身なのだ。同世代の仲間に理解されようと歩み寄ってはならない。誰にも媚びず、孤独に耐え、自らとの闘いに勝利をおさめることができれば、美術作家としての道は自ずから開けて行くことだろう。現代美術や「日本画」の閉塞状況を打破できるのはこうした人物なのかもしれないと、自分は三瀬に期待している。万一、体力、集中力、才能ともに恵まれている三瀬に危機が訪れるとすれば、それは、克己の精神に弛緩が認められた時だろう。

内面の抑え切れないエネルギーの奔流が増殖する細胞となって溢れ出すのが三瀬の作品。「奈良はカッコ悪いと思っていた」三瀬に、安易には捉えることのできない歴史や伝統というものの本質的な姿がおぼろげながらでも見えて来たのだろう。金色の富士、奈良の大仏、五重の塔、近代的なビル、UFO、山川草木などの森羅万象が、有機的な結びつきと無機的な羅列を無秩序に示す。この混沌こそ三瀬のリアリティーなのだ。調和もバランスも欠いたこの大いなる混沌を直視せずして、もはや我々は未来の姿を描くことができない。三瀬作品は現在我々が直面しているもの全てを表して人間社会の本質を抉り出した。それ故、三瀬作品の世界はダイナミックであり、醜悪にも映り、不穏なエネルギーと魅力に満ちている。

芸術批評 永見隆幸

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